

大学で写真を学んだ私は、
就職先に町の小さな印刷会社を選びました。
従業員は十人ほど。社長が実家の駐車場で創業した頃は、
風が吹くたびに紙が裏の竹林まで飛んでいったそうです。
営業として採用されましたが、
「まずは印刷を知りなさい」と工場へ配属されました。
そこで耳にした言葉が、今でも心に残っています。
「紙積み三年、水十年。」
オフセット印刷では、
積み重なった紙を一枚ずつ空気を含ませながら捌き、
印刷機へ送り込みます。
そして、水とインクの反発を利用するため、
その微妙なバランスを身体で覚えるには
十年かかると言われていました。
さらに難しいのが色づくりです。
以前は指定された色を
職人が何種類ものインクを混ぜ合わせて作っていました。
紙の質によって色は変わり、
乾く前と乾いた後でも見え方が違います。
「色合わせは一生の修行」。
そんな言葉があるほど、終わりのない世界でした。
その話に心を動かされ、私は社長へお願いして営業ではなく
印刷工として働かせてもらうことになりました。
今では紙送りも色合わせも、
高性能な機械が正確にこなしてくれます。
昔のように十年かけて身につける技術は、少なくなりました。
けれど、私はあの言葉が古くなったとは思いません。
紙を一枚ずつ捌き、一滴ずつインクを調合しながら、
より良い一枚を目指した職人たち。
その積み重ねは、単なる技術ではなく、
「物と向き合った時間」そのものだったからです。
時代は大きく変わり、便利さは増していきます。
しかし、その便利さもまた、誰かが長い年月をかけて
積み重ねた仕事の上に成り立っています。
私たちの仕事も同じです。日々の小さな積み重ねは、
すぐに形にならないかもしれません。
それでも、その一つひとつが、誰かの暮らしを支え、
自分自身の物語になっていくのではないでしょうか。
草野 崇
日本高速情報センター協同組合 代表理事 | 言葉と経験の研究者
このコラムを書いている私の、少し長い散歩道の記録です。
のび太だった僕の散歩道 ― 続きはこちら
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